不動産投資の何が良いのか教えてほしい

最近、どこで私の情報を仕入れたのか分からないが、仕事中にも関わらず職場に電話を掛けてきて不動産営業をしてくる輩が非常に多い。正直煩わしいし、しつこい。そんな不動産営業マンの話を聞いていて思うことが2つある。


まず、営業という仕事は未だにこんなにアナログなやり方なのかということ。私は実は営業らしい営業の仕事をしたことがないのだが、買う気の無い客に熱意だけでも買ってください的な根性のアプローチしても買わないでしょうに。銀行の営業とかもこんなやり方なのだろうか。だったら相当人件費が無駄だと思う。こんな不特定多数の人間にわざわざ電話までして押し売りするぐらいなら、TwitterInstagramFacebookで『不動産』とでもソートをかけて興味がある人にアプローチすればいいのに。私が代表なら営業マンはそもそも雇わないだろう。その人件費でもっと効果的な販促ができるはずである。


そして、今人気という不動産投資、何が良いのだろうか。実際に投資してる人、教えてほしい。

営業マンの話によると、不動産価値は景気に左右されにくく安定している(実際に調べてみると日本全体でみると緩やかに右肩下がり)為リスクは小さい。現金持ってるよりも税金が掛からないから節税対策になるということだ。確かに節税という面では一利ある。私も貯金程馬鹿馬鹿しいことはないと思っているし、いつ何が起きても良いように分散投資で資産はリスクヘッジするべきだという考えだ。

それでもちょっと話を聞いただけで全く興味がなくなった。不動産は投資の対象外、である。個人的には以下のように思うからである。


まず、不動産は全く安全ではない。日本のような災害立国でいつ東海大地震が起きてもおかしくないような状態で馬鹿でかいマンションなど損害のリスクが高すぎる。目先の話ではなく将来の為に投資するなら尚更である。毎年のように災害に見まわれるこの国で生きていることすらリスクなのに、建物を所有するというのは割に合わない。

次に流動性がなく、売りたいときに売れない。マンションを買って節税したとして、何十年か後に必要なくなったから売ろうかと考えた時、売れるだろうか?私が転勤族だからよくわかるが、このグローバルな時代にマイホーム持とうと思う人はこれからどんどん減っていくと思う。私は今年結婚するが一生マイホームなど作る気はない。日本がこのまま衰退し続け、海外でしか商売できなくなったらその時は私は海外に移住するし、ある特定の地域にマイホームを作るということは自分の人生の選択肢を狭めるだけだ。というわけで、特にマンションの一室などというかなり限られたニーズにしか応えられない不動産は将来欲しがる人は本当に少ないのではないかと思う。欲しがる人が少なくなれば、もちろん価値は下がる。いくらでもいいから買ってくれやと結局損してしまうんじゃないかなと思う。


そして、ローンでしか買えない。社長でもないかぎり私の年代で不動産を一括で買うことはできない。ローンを支払い終わるまでは自分の意志で売ることはできないのである。確かに東京オリンピックに向けて時価は上がっていくかもしれない。でも、そのときに売り逃げることはできない。オリンピック以降の日本には現状何の明るい未来も見えないし、それならすぐ売れる株とかの方がリスクは小さい。ローンなのでもちろん金利も取られる。


さらに言うと、不動産はほんとに安全資産なのか?バブルで大損こいた人は不動産が原因じゃなかったっけ?リーマンショックサブプライムローンも不動産関係だよね?どこが安全なのか。


というわけで、あまり私は不動産投資には興味が湧かない。そして、営業マンの話の持っていきかたもあまりうまくなかったと言わざる得ないだろう。なぜなら、私はどうせ投資するなら一獲千金を狙えるある程度のリスクがある商材の方が興味を惹かれるからである。毎月5万円、どぶに捨てたような気持ちでいずれは投資してることすら忘れ、10年後には実はその資産が数十倍になっていたみたいな方が夢を見れる。営業マンはローリスクということばかり主張してきたが、リスクがないということは見返りもないのである。そんなのつまらない。不動産では夢は見れない。


不動産に投資するぐらいなら、株の方が良いだろう。株ならば流動性があるし売りたいときに売れる。災害の影響も受けにくい。株主優待や配当もある。もちろん、その会社の未来を見る力は必要になるが、言われるがままに購入する不動産よりも自分の意志で決める分、後悔しても割り切れるだろう。


最も良いのはストックオプション。成長企業であるならば、かなりの確率で得することができる。会社にそういう制度があるならば、頑張って権利を取得できるぐらいまで出世を。または、IT等の自分の技術である程度契約内容を交渉できる仕事ならば契約に盛り込んでほしいところである。自分がその会社で頑張り、株価が上がり、その得を従業員として他人より多く得ることができるというのは仕事のモチベーションにもなる。私もストックオプション込みの自社株は資産管理の上でもかなり大きな役割を果たしている。


いずれにせよ、現金以外の資産は普段全く意識してなくて、そもそも自分がそんな資産持ってたこと忘れるぐらいでちょうどいい。そうなる為には色々な物に分散投資するのが一番である。不動産は金額が大きすぎる為、リスクも大きい。今人気なのかもしれないが、私はあまりお勧めしない。

最後に、こんなにお金のことを書いたが、私は今年結婚する。結婚してしまえば、なんかいくら金稼いでも出世しても、結局は奥さんや子供の為にそれを使うぐらいしか使い道ないんだなって思うと世のお父さん方は本当に凄いなって思う。これがマリッジブルーってやつなのだろうか。

我が20代を振り返る⑤ 地元就職はなぜいけないのか

最近部下の結婚休暇で仕事が忙しく更新が滞ってしまっていたが、20代を再び振り返る。社会人2、3年目の内容になるのだが、私は関東での配属の後、地元の奈良の営業店への転勤を命じられていた。


最近、私が二年前に書いた地元就職は百害あって一利なしという日記にコメントがつくことがあるのだが、正直読み返して見ると青臭さがあり同じ題名で書き直したい気持ちになる。今回はちょうど地元で働いていた時期の振り返りになる為、その焼き直しも含めた内容にしたいと思う。ただ、思っていることは二年前とほぼ同じである。


地元への帰還は正直予想もしていなかった。埼玉での生活は楽しく、やりがいもあった。元々新入社員で配属された部署には一年半の期限が暗にあったため、転勤はわかっていたが、恐らく関東の営業店になると予想していた。それでも、地元に帰れるというのは嬉しかった。まだ、そのときは地元で働いている友人もそれなりにいたし。


仕事の内容は同じ会社であるのに、当然のことながら大きく変わった。それまでは本部機能に近い、いわば仕組み作りの仕事がメインだったが、営業店なのでいかに効率よく多くの売上を作るかその為に今後尽力することになる。しかし、今でも思うがやはり現場が一番楽しいし、顧客のニーズを最も感じることができる。今日本の古きメーカーが月並み苦戦しているのは恐らく現場に立ったことがない人間が商品開発をしているからだと思う。実際に顧客に触れ合うことなく、生きたニーズを見いだすことは不可能である。


地元に帰ってきたこともあり、休みの日も1人でいることはあまりなかった。中、高の知り合いと会うこともあれば、職場の同僚とどこかに出掛けることも多かった。


もし、一度目の配属が地元だったらそれを幸せに思っただろう。しかし、すでに一度地元を離れて都会の生活を経験してしまった自分にとって、地元での生活はマンネリでしかなかった。学生気分で職場に知り合いが来たり、仕事とプライベートの線引きも緩くなり、仕事に対する熱意も薄らいだ。結果、地元にいたときの評価は今でも自分の歴代でも最低のものとなっている。一年目よりも三年目の方がボーナスが少なかった。成果主義の会社であるから良くあることだが、このままじゃやばい・・と当時真剣に悩んでいた。


思えば、その部署の社員で奈良出身の人は自分しかいなかった。皆縁もない土地で友人も少ない中、仕事にもプライベートにも貪欲になっていた。自分は地元に居るという安心感からかあらゆることに保守的になっていた。仕事のスキルなんて正直誰もそんなに変わらない、そんな中でこの意欲の差は致命的と言えよう。


そして、プライベートでも気づいたことがある。中、高の知り合いでずっと地元にいる人達はほんとに仕事の話をしない。共通の知り合いの誰々がどうしてるとか、過去の思い出話とか、彼女がどうだとか、そんな話ばっかりだった。東京で同じ新入社員の大学の友人らとたまに会った時はそれこそ仕事とか給料の話ばっかりしてたものだったからその違いに驚かされた。過去の思い出話というのは、お互いに何年と時が経ち、立場も責任も変わった時にするからしみじみするのであり、年に数回同じようなメンバーと同じような思い出話をしても何のカタルシスも感じない。


地元というのは働くところではなく、数年に一回帰るぐらいがちょうど良い。地元への転勤を経験して本当にそう思った。数年ぶりに地元に帰った時のあの懐かしい感じ、あの何とも言えない感動を地元にずっといる人は感じることができないのである。人生損していると言えよう。

私には地元以外にも懐かしいと感じられる土地がたくさんある。大学時代を過ごした京都もそうだし、新入社員時代を過ごした埼玉、これから転勤していく様々な地域。故郷がたくさんあるような気がして本当に幸せである。

地元奈良での仕事に関してはあまり良い思い出がない。それからまた一年半ぐらいで、今度は四国の愛媛県へ転勤することになる。愛媛こそ本当に縁もゆかりも無かった。しかし、愛媛での生活は思い返すだけで懐かしさがこみ上げてくる、そんなかけがえのない経験となった。ほんの二年前ぐらい前まではそこにいたはずなのに、遠い記憶のような気がしてならない、不思議な感覚である。


最後に地元就職がなぜいけないのか、改めて考察してみたいと思う。私が最も大きな要因と考えているのはそのリスクである。地元=安定と思考停止人間は考えてしまうがむしろ逆である。地元での就職はリスクでいっぱいなのだ。

①地方企業はこのグローバル化にどう対応するのか?今の時代、物を作るにしても何をするにしても人件費が安い地域、国でするのが当たり前である。人件費が安くできれば商品も安くなる、売れるのである。国産だから品質が良いという信仰ももほや通じない。なぜ、中国人が作るものよりも日本人が作るものが品質が良いと思える?私個人的には中国人をはじめとするアジア諸外国の労働者の方が働き者であるから品質は良くなるのではないかと思う。品質が同じなら安いほうが良い、当たり前である。海外になんのコネクションもない地方企業はこれからどうやって生き残るのだろう。業績が上がらない限り給料も上がらない。

②大企業→地元への帰還はできるが、地元就職→大企業への転職は厳しい。
新卒でどちらにする方がリスクが少ないかということ。最初から地元就職してしまうと後悔してもそれから上京したりするのは新卒時よりもかなり難しくなってしまう。逆に大企業に入り、それで合わないから地元就職に切り替えるというのは容易である。三年も働いていれば、大企業ならば職歴として申し分ないし、地方公務員試験でも有利に働くだろう。

③学生時代の努力の差
はなから地元を出ないと決めた人間と、地元を絶対に出ると決めた人間、その時点で学生生活の取り組みの差はかなり大きくなると思う。地元以外で就職するためにはそれなりのスキルや学歴が必要になる。地元で生きていくならば最悪コネクションだけで最低限生きることができる賃金は得られるかもしれない。何なら実家で暮らしてれば仕事もしなくて良い。何故勉強しなきゃならないのか?それは勉強しないと地元から一生出れないかもしれないからだ。

④東京1人勝ちの現状
日本は東京の1人勝ちである。あらゆる新しい技術や文化は全て東京に集中している。そのため、優秀な意欲ある若者はもはや地方に残らない。そして、どんどん東京の1人勝ちが大きくなる。このサイクルは止められない。地方には若者はどんどんいなくなる。そして、変化がなくなる。

⑤地方公務員、地銀の存在価値なし
この前、三菱かどこかのメガバンクの数千人の仕事が機械化によってなくなり、配転先を探しているという記事を読んだ。もはや銀行の仕事など、完全に機械化できて人がやる必要がない。なのに、そんな目の前の未来すら見えず、地銀や地方公務員になれて良かった安泰だとか言ってるのは滑稽でしかない。真っ先に仕事なくなるのがその2つだと思うけどな。現金=この世の無駄の象徴、あらゆる企業は管理コストがかかる現金の使用をこれから削減しどんどんウェブマネーが主流になっていく。現金が使わなれなくなれば、銀行の存在価値は0。公務員の仕事なんて無駄な帳票作成してるだけだから、全部ネット管理で元々不必要。

⑥実家暮らしによる晩婚、未婚化
親元を離れない実家暮らしは様々なリスクがある。それは異性関係において顕著である。いざと言うとき、1人暮らしと実家暮らしでは身軽さが全然違う。そして、私の知る限り、やはり20代を実家で過ごしてしまう人程、結婚はできないものである。別に結婚することが良いわけじゃないけども。

⑦親子の問題
これも経験則。親元を離れた方が親子の関係は良くなる。一緒にいるだけが親孝行ではない。離れていても感謝の気持ちは伝えることができる。私も一緒に暮らしているときは親に感謝なんてしたことなかったが、離れて偉大さに気づいた。

とまぁ、それ以外にも地元だと出会える人間の数が限られていたり、単純につまらなかったりまだまだたくさんのリスクはある。変化がないことこそ、最大のリスク。特に悩んでいる若者はまずは親元を離れる、地元を離れる選択をしてほしい。やはり地元が良いと思えば、それから戻ってくればいいだけの話。それはなんの恥でもない。

ビール値上げとパチンコ新基準の効果

最近自分の過去のことばっかり書いていて、なんやかんや様々な記憶を掘り起こして文字にするのはそれなりに疲れるので、ここらで箸休めを。


また、パチンコ批判です笑。  


さてさて、昨日からひっそりといつの間にかビールをはじめとする酒の値上げが実施された。簡単に調べると、何やらメーカーと街の酒屋を守る為の安売規制のようでまたまた売る側の立場のしょうもない規制をしているなと強く感じた。日本のこの古い売る側の立場からのマーケティング方法ではアマゾンをはじめとしたグローバル企業には勝てるはずがないのに、いつまでこんな茶番を続けて、日本は世界から取り残されてしまうのだろう。


アマゾンに関しては、ヤマト運輸の料金値上げが話題になっているが、これも所詮は売る側の論理。この件に関しては、また別の機会に考えを述べたいと思うが、ヤマトは最悪の判断をしたと思う。確かに人が足りない、アマゾンのサービスはきつすぎるのかもしれない。だからと言って、様々な宅配の問題点を解決する前に最大顧客のアマゾンに対して強気の値上げを要求するというのは企業努力の欠如も甚だしい。アマゾンはすでにドローンで宅配ができる程の技術を持っているし、ヤマトが簡単に撤退したことでアマゾンが本気で日本の物流を牛耳りだすきっかけとなるだろう。物流が抑えられたらどんな業界もアマゾンには勝てない。お客様の為により安く、より早く、という考えのアマゾンと従業員第一に舵を切ったヤマト。もはや勝敗は見えている。


さて、本題であるが、今回の酒の値上げや例えばタバコの増税、消費税自体の増税も含めて何故真面目に生きている一般市民ばかりから金を奪おうとするのだろうか。こんな事をしていては日本人の消費マインドはいつまで経っても上がらない。この増税に加えて、日本企業の多くは先程書いたように売る側のトンチンカンなマーケティング、商品開発に走りがちであり、さらに消費がされなくなっている。


政府に金が無いならもっと簡単に増税で巻き上げられる業界があるじゃないか。そう、パチンコ業界である。

完全にオワコンであるがそれでもまだ3兆円産業。この世に存在する価値なしのこの業界から何故金を奪わないのか。この業界の売上とはすなわちお客が台に投じたお金の総額であり、それが2兆や3兆と言われている。それの10%ぐらいを税金として国が徴収しても一般市民は誰も困らない。公営ギャンブルである競馬等の売上の多くはそのように税金で持っていかれるし、パチンコもそうあるべきである。


実際にパチンコしてる客も別にそんなに困らないだろう。一万円のうちのたった千円、頭がいかれたパチンカーにとって千円ぐらい勝ち負けには何の影響もないし、気にもかからないだろう。そもそも、台の規制されまくってる中未だにパチンコ屋行く人って、普通に考えたら勝つつもりで行ってないはずである。どうせ負けるならば税金払って国に貢献した方が気持ちよい。何なら30%ぐらいのパチンコ税をかけてもいいぐらいである。私がこの国の独裁者ならパチンコ屋の売上の70%は税金として没収するだろう。それでも、馬鹿なパチンカーは打ちに来るに決まっている。楽な商売である。


こんなに私はパチンコ業界やパチンカーをバカにしているわけだが、パチンコ屋の店員でも何でもいいから反論があるならぜひしてほしい。パチンコ屋の存在価値って何??


しかし、しかしこんな誰もできやしないパチンコ税を導入しなくてもパチンコ業界の終焉は一歩一歩確実に近づいている。業界最大手のマルハンの決算が先日出た。


http://www.yugi-nippon.com/?p=12955


二年連続の減収減益。一昨年大幅に減収減益に陥り、それよりもこの一年実績が落ちているのたがら、オワコンもいいところである。特筆すべきは、下期の不調である。実はマルハンに限っては上期の決算時では売上こそ大幅にダウンしていたが、残された依存症のクズから今まで以上に金を巻き上げることで営業利益は大幅に増えていたのである。


http://www.yugi-nippon.com/?p=11077


ここから下期で一気に減益まで行ったのだから、『新基準』の力、恐るべしである。新基準とはなんぞやということまでここで書く気力は無いが、要は今まで看板機種だった台のほとんどは基準外になり今年の年始までに新しい基準のものに入れ替えたということである。新基準はスペックがクソであるため、人気機種がなく、新台入れ替えラッシュで何とか客数を維持するしかないのだが、やはりその経費はマルハンと言えどもかなりのダメージになったのであろう。


ところで、上期と下期を見比べて利益こそ大幅に減っているが、売上の減少は実はほとんど同じペースで変わっていない。要するに、新基準になっても客が台に投棄する金額は変わってないということ。これには正直驚いた。それまでよりも完全に勝率が下がるクソスペックの新基準台になったにも関わらず、客は今まで通りのお金を投棄し、そして、スペック通りに行けば今まで以上に大敗しているわけである。

馬鹿につける薬はない(笑)とはこのことである。でも、そんな馬鹿がパチンコ業界を支え、そのしわ寄せが一般市民の生活にきていることはまじで笑えない。パチンコ業界全部終わらせて、店員と無職のパチンカスはヤマトや佐川で少しでもアマゾンに対抗するために身を粉にして働けばいいのに。


もう一度言おう、馬鹿につける薬はない。

我が20代を振り返る④ 東日本大震災

20代を振り返るシリーズもついに社会人編に突入。私の社会人人生は転勤と共にあり、仕事のことは勿論そんなつっこんだ内容は書けないので、これからはただの地域紹介がメインになってしまいそうだが、それはそれでいいんじゃないかと思う。
 
 
私の社会人人生は埼玉から始まった。ずっと関西圏に住んでおり、旅行等でも関東に来ることはほぼ無かったので、本当に縁もゆかりもない地だと言えよう。社会人として週5日も当たり前のように働かなくてはならない不安に加えて、この周りに誰も知り合いがいない孤独は当初なかなか厳しいものがあった。


それでも、現実は待ってはくれない。東京で全体研修を受けた後、埼玉の配属先での勤務が始まった。


最初はやはり1日が凄く長く感じた。それまでのバイトでは基本的に4時間や5時間勤務であったため、8時間を毎日となるとやはり長い。でも慣れるのも早かった。初給料はとにかく嬉しかった。今までバイトで汗水流しても届かない額が一気に入り、生活の幅も広がった。当時恐らく人生で最も服に金を掛け、お洒落にしていた。


仕事では一通りの失敗をした。私は要領の良いタイプでは無かったが、先輩方は優しく指導してくれた。今の仕事のやり方の根幹は当時の先輩方から教わったこと。感謝してもしきれないが、多くの先輩はもうこの会社にはいなかったりする。


私が最初に配属されたのは新設されて二年目のかなり特殊な部署だった。多くの新入社員が各地域のいわゆる営業店に配属される中、私はどちらかと言うと本部機能に近い仕事をしていた。何故私が最初にそこに配属されたのかは未だに謎であるが、会社内でも当時確かに注目度が高い部署であったのは感じていた。社長や役員の方も良く訪れていたし。


激動の一年目を振り返る上で大きな出来事が2つある。一つ目は社内のプレゼン大会で国内大会を優勝し、NHKの某番組に取材を受けたことである。プレゼン大会と言っても、内容はその部署でどんな取り組みをし、どんな成果が上がったかというのを発表しあうような場であり、当時私の部署の系列の役員の方が始めたものであった。なので、正直我々の部署は有利であったのだが、役員の方の顔に泥を塗るような発表はするなよとかなり釘を刺されたのを覚えている。


その部署の中でも、さらに新しい仕事をしていた部門に私は当時いたのだが、そこには上司が2人いてあとは派遣社員の方が大勢といった状態であった。プレゼン大会には上司2人と私の3人で出場した。半年にも渡る取り組みの末、国内大会を突破できたのが決まった際は本当に泣きそうなくらい嬉しかった。もしかしたら、あの時以上の感動にはまだ巡り会えていないかもしれない。


おまけとしてNHKのテレビ番組にも特集され、それを録画したものは密かに家宝としてまだ保存している。そして、国内大会を突破した後、海外の関連会社とのプレゼン世界大会がその年は中国で開かれる予定だった。ここまで来たら世界大会を取るぞと意気込んでいた矢先、大事件が起きた。


東日本大震災である。私はその日たまたま休みで家でゆっくりしていた。確か昼過ぎぐらいだったかなと思うが、生まれて初めて死を覚悟するぐらいの爆発的な地鳴りが行った。

地震が起きた時、とりあえず私は外に出たのだが、同じアパートの住人の人も外に出て騒いでいた。私の居た埼玉は震度6であった。電柱も斜めになっておりこれはただごとではないと家に戻りテレビを見た。そして、驚いた。なんと震源地は東北だったのである。こんなに離れてる埼玉でこの揺れ、東北地方は本当にやばいに違いない。


私はまず職場に連絡したが繋がらず。電話やメールは一切繋がらない状態となっていた。

たまたま当時流行っていたミクシーのメッセージ機能が使えそうだったのでミクシーで関東在住の知り合いには連絡を取った。渋滞で動けない、駅では水道管が破裂し水浸しになっているようだった。

少し時間が経ち職場に電話が繋がった。そこの建物には100人以上の同僚がいるがけが人等は出なかったらしい、が、様々なシステムや商品が壊れてしまった為復旧のメドが経たない状態とのことだった。翌日は超法規的な早出で皆で復旧作業をする。


その日1日余震も多く、まさにこの世の終わりという空気が街中に漂っていた。ほとんどのお店は臨時休業し、スーパーの食料品等もスッカラカンになっていた。いつまた大きな地震が来るかわからない、そんな不安の中でもなんやかんや眠りについた。


翌日以降もニュースは地震一色だった。今回は東京も他人ごとではなかったこともあり、東日本全土がなんとか頑張って生きていこうという空気になっていた。そんなテレビ番組等を見て、私もやれることをやろうと励まされた。


職場は悲惨なことになっていた。何より一番重要なシステムがダメになってしまった為、商品を供給する作業を全て人の手で行わなくてはならない。どのお客様のどの商品がどこにあって、さらに商品自体が浸水等でダメになっている物もあり、ハルマゲドンと行った状態であった。仕事中も勿論余震は襲って来るし、特に派遣社員の方はナーバスになっていた。皆どこかで不安を抱えながらも一生懸命復旧作業を続けていった。


1ヶ月程で職場はほぼ復旧した。私の月の残業時間は130時間程になったが、勿論それに文句は無かった。とにかくよくここまで持ち直したなとこれまた泣きそうなくらい嬉しかった。残業代もきっちり出た為その月の給料は今の管理職となった給料よりも多かったと思う。4月にはノコノコと新入社員もやってきた。ほんとに復旧した直後に来たので、良いときに来たなコイツらと思ったのを覚えている。が、やはり初めて出来た後輩は嬉しかった。早稲田出身でずっと東京、私とは全く違う人生を過ごしてきた若者と接するのは刺激的であった。


とこんな感じで一年目は激動の日々であった。当時の上司が地震の時にこんなイレギャラーな事態は多分今後訪れないと言っていたのが印象的だが、これ以来こんな事件は確かに仕事で起こっていない。一年目からこの経験ができたため、その後のどんなことも大したことないと思えるようになった。東日本全土が復興に向けて皆で力を合わせて・・という助け合いの空気の中、できれば私は関東でもっと働きたいと思っていた。が、次の配属はまさかの地元、奈良であった。


関西に戻って、関西人にとってはあの東日本大震災は所詮他人事なんだなって強く感じた。なんというか凄く平和ボケしてるように見えた。そのくせ、震度3ぐらいの地震が来ると慌てふためく。余震が基本的に震度4以上だったこともあり、震度4ぐらいまでの地震はもはや私の中で地震ではないと思うようになっていた。何事も経験だなと。


埼玉での色々な出来事はあまりに印象的過ぎた為、埼玉との別れは本当に辛いものだった。多くの苦難と感動を共有してきた仲間は、今でも元気にしてるだろうか。転勤後、一度だけ埼玉の同僚達と飲みに行ったがそれっきり。今ではもう六年前、自分が埼玉に住んでたことすら遠い記憶だが、確かにあの時、私はそこにいた。

我が20代を振り返る③ 驚きのクリスマスプレゼント

過去を振り返ると懐かしい気持ちになり、早く次の一年を書きたいという珍しい衝動に駆られる。日記は書ける時に書く、というのがポリシーなので続けて書いてみる。


22歳は大学四回生、人生の第一幕の最終章と言えよう。就職をなんやかんや4月で決めてしまい、卒業するのに必要な単位もあとわずかであった為、私は最後の一年をどう過ごせばいいのかわからなかった。もし、今の私が一年間自由に過ごせるとなれば、必死にどう過ごそうか考えるだろうが、いかんせん当時の私は視野も狭ければ、世間も知らなかった。結局、適当に授業を入れて学校にはなるべく通い、バイトもそれなりにやり、サークル活動も時間がある時は参加するという、至って普通な過ごし方をした。


バイトはその頃、サッカーの試合場の設営とボールボーイをやっていた。ガンバ大阪京都サンガの競技場、当時はどちらもJ1で、私は物心ついたときからの名古屋グランパスファンでJリーグが好きだったのでこのバイトは本当に楽しかった。テレビでしか見たことがないサッカー選手を間近で見れるし、怪我した選手を担架で運んだりもした。また、ライブの警備等もしていたので、SMAPや嵐等のライブで生ジャニーズを初めて見れたのも感動した。


話が逸れたが、時間があればあるほど、私はこの何も成し得なかった大学生活を悔やんでいた。四年間もあって、俺は一体何をしてたんだろう。流されるように授業を受け、流されるようにサークルに入り、適当に恋をして彼女ができたり振られたり、それらに本当に自分の意志はあったんだろうか。高い授業料払って、これでいいのか?私は常に考えていたが、結局卒業まで何かを成し得たという達成感を味わうことは無かった。弁護士になると言って彼女も作らず勉強していた友人、お笑い芸人になると言って吉本興業に入ろうと頑張っていた先輩、オリンピックを目指しシンクロの部活に明け暮れていたゼミ仲間、達が羨ましかった。


心のどこかで物足りなさを感じていても、学部の友人やサークルの先輩、後輩と過ごす大学最後の時間は本当に幸せなものだった。唯一大学生活で自分が得たものはこの友人達であった。就職して度重なる転勤もあり、そのほとんどとはなかなか会えない状況だけど、今でも彼らのことは忘れない。


夏、サークルのテニス合宿では本当にたくさんテニスをした。大学一回生の頃に比べると大分実力はついたし、何よりたくさんの後輩が入ってくれ、地味だったサークルの印象は随分明るいものとなっていた。ちなみに、私が最後にサークルの人とあったのが四年前ぐらいなのだが、今はギャルサーと化しているらしい。歴史は変わるものである。


学部の友人らとは年末前にグアムに旅行に行った。実は私はその後仕事でアメリカや他の国に行ったことはあるのだが、旅行で海外に行ったのはこの時が最初で最後である。夢のような時間であったが、その旅行が終わる頃には私の気持ちはもう卒業と就職に対しての絶望感しかなく、今思えば恐らく大学最後の3ヶ月ぐらいは人生で一番辛い気持ちだった気がする。


クリスマスには当時好きだった後輩と大阪の梅田の何とかタワーの展望台にいた。秋ぐらいからいい感じになり、2人で何度かデートする仲となっていた。大学時代に付き合っていた彼女はいたのだが、それも高校時代同様言い寄られて付き合っており、自分から女性にアプローチしてうまくいったことはなんと大学四回生にもなっても無かった。またまた、相手の後輩は誰とも付き合ったことがないウブな子で自分が引っ張っていかなきゃならないのに、どうしても振られるのが怖くて告白はできなかった。本当に意気地なしである。


ちなみに、その後輩の子も隣の女子大の子で、あの二年前の失恋の悪夢が思い出された。それでも、今回は二年前よりも脈はあった。クリスマスだけじゃなく、初詣も私の地元の奈良で一緒に過ごしたし、メールでお互いに好きと言い合ったりしていた。

そんな空気を一変するクリスマスプレゼントが会社から届く。一年目、初配属先の通知書がわざわざクリスマスの夜に届いた。我が社は全国に勤務地がある。最初だし、一応希望は関西で出したから関西のどっかかなと甘い予測をしていた。しかし、結果は関東の埼玉であった。これも運命、埼玉に行くことで私の人生は一変するのだが、当時の私は確かに地元関西を離れること、皆と別れる、特に好きな彼女と別れることにかなり落ち込んでいた。


彼女もショックを受けていた。が、その後もそれまで通り2人で会ったりしていた。私は悩んだ。この好きな気持ちをどうすればいいのか。遠距離でも何とかなるだろうか?そもそも仕事の忙しさもわからないし、不安はある。この気持ちは蓋をするしかないのかもしれない。


が、やはり胸にしまい込むことはできなかった。結局、告白することにした。メールで告白することをにおわせて、大阪で会った。あまり覚えていないが、私はガチガチになりながら梅田のヨドバシカメラで告白をしたはずである。それだったら、クリスマスに展望台の上でしとけよとツッコミたい。


その時、彼女がどんなリアクションだったのか覚えていないが、なんとなく振られて気まずくなったような気がする。そして、彼女は餞別に好きな本をくれたのだが、そこに一緒に手紙も入っていた。そこには今はまだわからないけど、先輩とはずっと良い関係でいたい、大好きです的な事が書かれていた。嬉しいような切ないようなそんな気持ちで大阪から奈良まで帰った。


ここで、彼女と綺麗に終われてたら、なんと美しいストーリーだったろう。当時の私は地元を離れる寂しさと彼女と別れる気持ちに押しつぶされそうになりその後、埼玉に行った後、優しい彼女に醜態を晒す。人生最大の後悔と言えよう。今ではもう彼女がどう生きているのかさえ知りようがない。まぁ、それは次回書くかわからないが、今回の範囲外である。


大学の卒業式。たくさんの友人と別れを告げた。卒業式で別れを告げたのは授業等で会えば話をする
程度の仲の人達だったが、それだからこそもう一生会わないんだろうなと思って余計に寂しかった。別れは今も苦手である。

卒業式が終わった後は確かゼミ仲間と最後の晩酌をしたのだったかな。あまり覚えてないや。

大学の友人とはそれから一年に一回ぐらいのペースで会っていたのだが、近年は会っていない。別れと同じぐらい多くの出会いがあり、人間関係は更新されていくものだが、働き出してから出会った人と学生時代の友人ではやはり違う感情になる。結婚式で皆に会えるかな。



卒業数日後、ついに私は地元関西を離れ、全く馴染みの無い埼玉に向かって京都で新幹線に乗った。それから信じられないペースで私は転勤をしていき、引越なんて慣れたものになっていくのだが、この時は新社会人としての不安+地元を離れる不安の両方で押しつぶされそうになっていた。埼玉では新入社員にしてかなり色々な事を経験することになる。人生の第二幕の始まりである。

我が20代を振り返る② リーマンショックと就活

20代を振り返る日記、今回は21歳の頃にタイムスリップをしてみる。

大学三回生、私はそれまで通っていたキャンパスから京都市内のキャンパスに移動し、人生で初めての一人暮らしを始めていた。今思えば、三条や四条、ちょっと頑張れば京都駅まで自転車で行ける所に住んでいたなんて身分不相応もいいところだが、1、2回生の時よりも自由な気持ちで毎日が過ごせたし、ゼミも始まり友達も増えたことで恐らく三回生の前半は大学生活で一番楽しい時期だったと思う。


例の失恋もあったが、サークル活動は基本的に興戸のキャンパスにまで行かないとテニスができないため一気に熱が冷めていた時期でもあった。サークルの友人よりも学部の友人といる時間が多くなり、よくみんなで集まってお酒を飲みながらスマブラをしたり、将来について語り合ったりしたものだった。その時には彼女もできたり、確実に大人の階段を一歩一歩登っている感覚はあった。


そんな楽しい前半とは違い、後半は厳しい厳しい日々であった。就活が始まったからだ。

私は学部の友人が基本的には真面目な奴らで本当に良かったと思う。当時の私は大学に何となく入学したものの、その後一体どういう流れで卒業後社会に出て行くのか全く知らなかったし、どんな企業があって、どこが人気なのかも無知であった。秋に友人に連れられて参加した大学の就活セミナーで初めて就活というものを知り、自分の将来を本気で考え始めた。


私はあまりに社会を知らなかった為、とりあえず聞いたことのあるヨドバシカメラ紀伊国屋書店等自分が良く買い物に行くいわゆる小売業界が人気なのかと真面目に思っており、メーカーとか商社なんて聞いたことないなーと思っていたが、マイナビの人気ランキング等がうまいこと私を日本社会とはこういうものだということを教えてくれた。


就活は最初の方は楽しかった。大学に色んな会社の人事の人がセミナーを開いてくれ、どの企業の話も本当に面白かった。今思えば株主総会で株主に対して経営方針を説明するのに近い内容であったし、その企業の顔として仕事を任されている人事の人はみんな魅力的だった。


そして、冬になりいよいよこちらから会社に行ってセミナーを受けたり、選考を受けたりするようになった。この経験も実に今役に立っている。私は友人らと同じく、1日午前中から夜まで無駄なく大企業の説明会をスケジュールしており、その殆どが大阪や京都の各所で開かれていた。その為、大阪の地理にとても詳しくなり、今でも大阪の梅田等でも迷うことなく行きたい所にスムーズに行くことができるようになった。プライベートやデートで自信を持って大阪や京都を案内できるのはありがたいスキルである。


ところで、私の友人はリア充で真面目な奴が多かったから毎日1日中企業のセミナー等に脚を運んでいたし、私もそれが当たり前だと思っていた。しかし、先輩を見ても後輩を見てもそれはかなり真面目に就活をやってる部類に入るようだったし、見境がないとも言われた。なぜこのような温度差があったかというと我々の世代はある事件により就職氷河期の再来と言われていたからである。


リーマンショク。当時はリーマンショク、何それ?ぐらいの感覚だったが、今ならそれがどれだけの大事件かわかる。とにかく、我々は運が悪かった。リーマンショクのせいでほとんどの企業は採用数を減らしていたし、中小企業は採用をしないというところも多かった。企業側はこんな時こそ内定された人はその後会社で活躍できるだろうとか呑気なことを言っていたが、こちらは生きるか死ぬか、必死である。一個上の代は楽々内定取れてたのに、そこから一気にこんな不景気に陥るなんて不平等もいいとこである。


3月に入り、企業セミナーに行くだけの時期は終わり、ついに書類選考や適性検査が始まった。ESは何枚も書いた。最初は何の攻略法も知らず、素直に書いていたがそれでは普通に書類選考すら落とされた。減点方式、いわゆる脚切りにあわないためにマニュアル通りの書き方をマスター。志望度が高い企業の選考が始まる4月には、面接まではとりあえず行けるようにはなっていた。



そして、4月、面接ラッシュ。結局、私は恥ずかしながら4月に入っても志望業界すら無かった。とりあえず、名前を知ってる企業に内定貰えたらもうそこでいいやと就活に疲れ切っていた。それまでの人生の中で最も厳しい経験であったし、最も重要な1ヶ月であった。


面接を受けた多分20社ぐらいの中で半分程は集団面接で落とされた。個人面接に行けた企業の中で3次面接に行けたのもまた半分ぐらい。絶望感漂う中、大企業だけでなく地方で選考がある中小企業の選考にも平行してエントリーするようになった。


面接は性に合わなかった。何故なら、私はそもそも人見知りであるし、第一印象が良いと言われたことなんて生まれて一度も無かった。自分には何の価値もないし、そんな自分の何をアピールしろってんだよと路頭に迷っていた。結局この性格は未だに改善しきれてなく、結果は出すのにアピール力が全く無いというのは今の私ですらよく言われる。


そんな中で唯一面接でめちゃくちゃ怒られたのが実は私が今働いている会社である。一次面接の時、うちの会社でどうなりたい?会社をどうしたい?と聞かれてうまく答えれず、その後会社の数字等をテストされ全く知らなかったことが原因であった。こっちは本気で君と向き合っているのに、君はうちの会社のことを知らなすぎるとガチで怒られた。最後に次は期待してるからもっと勉強してきなさい、と。


その面接で私のやる気スイッチが入った。その後何度か面接があったのだが、あまり覚えていない。が、私は確かにその会社の選考に対しては他の企業以上に勉強して臨んでいた。そして、選考が進むに連れてここしかないという気持ちになっていった。


最終面接も少し怒られたのでよく覚えている。今は会社内では役員をやっている雲の上の人が相手だった。私は最終面接で緊張しまくり、大したことを言えなかった。普通なら落ちていただろう。しかし、その場で内定が貰えた。いわゆるポテンシャル採用というやつだった。


君今まで苦労してこなかっただろ?その才能と体を作ってくれた両親に本当に感謝しなきゃだめだよ。


最終面接でそう言われた。思わぬ言葉だった。そんな事はない、人並には苦労してきた・・はずだと振り返ってみたが、確かにそれまでの私の人生は努力以上の結果が出ることが多かった気がするし、本当の意味での苦労はこの就活が初めてだったかもしれない。必死にならずとも何となくここまでこれた私の人生だった。


なにやら、私は面接の前のSPIと言われる能力テストが選考を受けていた学生の中でトップクラスの成績だったみたいだった。我が社のテストは何故か異常に難しかったのだが、確かに運良く自分の得意な問題が続き集中力もあり手応えはあったのを覚えている。慶応の首席の子も受けていたが、私の方が良かったらしい。なのに、大学の成績はイマイチだし、面接でも全然力を発揮できていない、でも一緒に働いてみたいから、お願いします、と。


その時は本当に嬉しかった。もしかしたら、人生で一番ほっとした瞬間かもしれない。その後は選考が残っていた企業を受けて、もう一社内定を取ることができたが、私の気持ちはもう決まっていた。



よく人事の人は縁がなかったという言い方をするが、本当に縁というものは不思議である。今はこの会社以外で働く自分を想像することができない。縁というものはあるのだと思う。


就活によって様々な企業のことを知ることができ、本当に人生に二度とできないかけがえのない経験となった。あの頃の厳しさを思い出すと、今のぬるま湯につかりかけている自分の仕事に喝を入れたくなる。あんなに必死になって掴んだ内定、今の自分ももっと頑張らなきゃいけないのではないだろうか。


結果的に私は4月の終わりには就活を終えた。学部の友人も何やかんや自分と同じぐらいの時期に就活を終えた。中には、大企業ばかり6社の内定を貰えたイケメンもいたが、彼はその中から選らんだ1社をすでにやめ、外資企業に転職した。私も今や管理職となったし会社もどんどん成長している。皆頑張っている、皆に会いたい、この日記を書いて懐かしくそう思えた。

我が20代を振り返る① 失恋の興戸坂

20代も残りあと10ヶ月ぐらいとなった。年内には結婚もする。そんな節目を前に少しぐらい思い出に浸るのもいいではないか。ということで、流星ワゴンにでも乗った気持ちであの頃にタイムスリップしてみる。極めて個人的な内容になるため、誰が読んでもつまらないだろう。



2008年、かな。私が20歳だったのは。大学の2回生。私は秋田生まれの奈良育ちで、大学は京都の大学に進学していた。京都と言っても1、2回生の間は限りなく奈良寄りの興戸という駅の丘の上にそびえ立つキャンパスに通っていた。実家が西大寺と高の原の真ん中ぐらいにある私は勿論実家通い、大学受験の時は気にもしなかったが結果的に実家から近い大学に進学できたのは良かったし、中、高校時代の知り合いは居なかったが一緒に奈良方面に帰る友人も私にはそれなりにできていた。大学生活は当時確かに楽しかった。



2回生までの大学生活は至って普通であった。授業は基本的には全てでていたし、留年するような難易度の試験もほぼ無かった。アルバイトは中学の友人と地元のスーパーで週4日ぐらい、遅番で入っていた。バイトも色々な個性を持つ先輩達がいて楽しかった。大学に行くのも、バイトに行くのも楽しみなんて今思えば信じられないぐらいあのときは幸せだったはずである。


テニスサークルにも入っていた。私は高校の時に軟式テニスをしていたのだが、硬式テニスのサークルに入ることにした。なんでそこに決めたのかは正直あまり覚えていない。入学式かその次の日ぐらいに花見に誘われて、当時四回生だったお姉さんの優しさにコロッと行ってしまったのと、花見で会った同級生にたくさん同じ学部の人がいて彼らと一緒にいるのが当たり前になってしまったからだった。


タイムスリップできるならば、私はこのサークル選びだけはやり直す気もするし、でもやり直さない気もする。奈良から出たことが無かった田舎者の私にとって、そのサークルのアットホームさは居心地が良かった。しかししかし、その後わかったことだが、このサークルはテニスがまともにできる人はほとんどいないし、三回生の代以外はほぼ練習に来ない幽霊部員という存続の危機に瀕しているダメサークルでもあった。



ここまで書いてきて楽しそうな大学生活であるが当時私の頭を基本的に悩ませていたのは恋煩いであった。この一年はそういう面で見れば人生で一番悲惨な年だったかもしれない。一年の間で一回の失恋と一回の片思いしかできなかった。今思っても女心とは恐ろしいものである。


私はサークルの同回生の女の子にちょっかいを出していた。その子は隣のキャンパスの女子大の子で今思えばなんでその子のことが好きだったのかもわからないが、比較的大人しい感じの子で、サークル活動よりも学業やバイトを大事にする子だった。


私は比較的サークル内では誰とでも話せるタイプだったが、その子はあまり多くの人と打ち解けている様子ではなく人見知りであった。多分私は話やすいし異性を感じさせないから仲良くなりいつの間にか毎日のようにメールしたりする仲になっていた。
  

夏に合宿で宮崎に行った。学生の身分でなんて優雅な合宿と今は思うが、当時あろうことか私達は宮崎まで行ってその時間の半分ぐらいはテニスをしていた。私もそのサークルの中ではテニスは上手いし、熱意があるほうだったので他の観光なんて脇目も触れずテニスをしていた。今では考えられない。


そんで、あまり良く覚えていないが浜辺でビールかけをする時間があって誘われたのだが、私はその好きな子が服が濡れるのが嫌と言って断ったので一緒に自由時間を過ごすことになったのだった。結局ホテルの部屋で2人でトランプしたりお話をして過ごして、同回生からかなり冷やかされたのを覚えている。今の私ならその2人きりの時間で少なくとも手つないだり、キスしたりするが、あのときの自分にそんな発想はなく、ただ2人でいい感じになって満足していた。


当時の私はなんと意気地なしだったろう。ぶん殴ってやりたい。その後も合宿中終始いいムードだったにも関わらず私は告白もできなかった。高校時代に彼女は居たが、相手からのアプローチで付き合っていた為、自分から女性にどうアプローチしていいかわからなかったのである。


そのまま季節は秋になりますます私達2人は仲良くなった。周囲には付き合っていると思っていた人もいた。それでも、私は現状に満足していた。幸せだった。


今思えば、彼女の感情は秋ぐらいからたまに乱れていた。メールするのがめんどくさいとか、1人の時間が好きとか、キャリアウーマンになりたいとか、私に言って来たときもある。じゃ、メールしない方が良い??と聞くとそういうわけじゃないと。


季節は冬になり、別れは突然訪れた。彼女はサークルを辞めた。いきなり。理由は特に聞かされていないし、私からメールをしても返事は来なかった。そして、動転した私はそこで初めてメールで告白をしたのだった。


勿論、返事は来なかった。苦い経験だった。


ちなみに、この失恋には笑えない後日談もあった。実はその彼女は本当に短い間だったが、サークルの先輩と付き合っていたらしい。私がそのことを知ったのはなんと四回生の春だった。私はその先輩のことも大好きだから別に良いのだけど、振り返ってみれば自分の意気地なしさが酷い。笑えない。ちなみに、日記に書くかはわからないが、この手のやらかしを私はこれからも繰り返す。第一印象良くて、すぐ仲良くなって、ぐだぐだ友人やって、微妙な感じになってからフラレルというのは当時の私の鉄板パターンだった。これらの苦しみがあり今があると思えばそれまでだけど、学生時代、もうちょっと勇気があれば色々変わったことも多かったんだろうなって思う。


ちなみに、世間的にはこの年はエド・はるみがブレイクした年で、北京オリンピックが開かれていたようである。オリコン一位は嵐。この時からすでにオリコンはジャニーズに支配されていたのかと驚愕であるが、私が良く聞いていたのはMr.Childrenの『HANABI』。この歌がまた切ない感じなんだよな。


https://youtu.be/9gHciuhgsSo