我が20代を振り返る③ 驚きのクリスマスプレゼント

過去を振り返ると懐かしい気持ちになり、早く次の一年を書きたいという珍しい衝動に駆られる。日記は書ける時に書く、というのがポリシーなので続けて書いてみる。


22歳は大学四回生、人生の第一幕の最終章と言えよう。就職をなんやかんや4月で決めてしまい、卒業するのに必要な単位もあとわずかであった為、私は最後の一年をどう過ごせばいいのかわからなかった。もし、今の私が一年間自由に過ごせるとなれば、必死にどう過ごそうか考えるだろうが、いかんせん当時の私は視野も狭ければ、世間も知らなかった。結局、適当に授業を入れて学校にはなるべく通い、バイトもそれなりにやり、サークル活動も時間がある時は参加するという、至って普通な過ごし方をした。


バイトはその頃、サッカーの試合場の設営とボールボーイをやっていた。ガンバ大阪京都サンガの競技場、当時はどちらもJ1で、私は物心ついたときからの名古屋グランパスファンでJリーグが好きだったのでこのバイトは本当に楽しかった。テレビでしか見たことがないサッカー選手を間近で見れるし、怪我した選手を担架で運んだりもした。また、ライブの警備等もしていたので、SMAPや嵐等のライブで生ジャニーズを初めて見れたのも感動した。


話が逸れたが、時間があればあるほど、私はこの何も成し得なかった大学生活を悔やんでいた。四年間もあって、俺は一体何をしてたんだろう。流されるように授業を受け、流されるようにサークルに入り、適当に恋をして彼女ができたり振られたり、それらに本当に自分の意志はあったんだろうか。高い授業料払って、これでいいのか?私は常に考えていたが、結局卒業まで何かを成し得たという達成感を味わうことは無かった。弁護士になると言って彼女も作らず勉強していた友人、お笑い芸人になると言って吉本興業に入ろうと頑張っていた先輩、オリンピックを目指しシンクロの部活に明け暮れていたゼミ仲間、達が羨ましかった。


心のどこかで物足りなさを感じていても、学部の友人やサークルの先輩、後輩と過ごす大学最後の時間は本当に幸せなものだった。唯一大学生活で自分が得たものはこの友人達であった。就職して度重なる転勤もあり、そのほとんどとはなかなか会えない状況だけど、今でも彼らのことは忘れない。


夏、サークルのテニス合宿では本当にたくさんテニスをした。大学一回生の頃に比べると大分実力はついたし、何よりたくさんの後輩が入ってくれ、地味だったサークルの印象は随分明るいものとなっていた。ちなみに、私が最後にサークルの人とあったのが四年前ぐらいなのだが、今はギャルサーと化しているらしい。歴史は変わるものである。


学部の友人らとは年末前にグアムに旅行に行った。実は私はその後仕事でアメリカや他の国に行ったことはあるのだが、旅行で海外に行ったのはこの時が最初で最後である。夢のような時間であったが、その旅行が終わる頃には私の気持ちはもう卒業と就職に対しての絶望感しかなく、今思えば恐らく大学最後の3ヶ月ぐらいは人生で一番辛い気持ちだった気がする。


クリスマスには当時好きだった後輩と大阪の梅田の何とかタワーの展望台にいた。秋ぐらいからいい感じになり、2人で何度かデートする仲となっていた。大学時代に付き合っていた彼女はいたのだが、それも高校時代同様言い寄られて付き合っており、自分から女性にアプローチしてうまくいったことはなんと大学四回生にもなっても無かった。またまた、相手の後輩は誰とも付き合ったことがないウブな子で自分が引っ張っていかなきゃならないのに、どうしても振られるのが怖くて告白はできなかった。本当に意気地なしである。


ちなみに、その後輩の子も隣の女子大の子で、あの二年前の失恋の悪夢が思い出された。それでも、今回は二年前よりも脈はあった。クリスマスだけじゃなく、初詣も私の地元の奈良で一緒に過ごしたし、メールでお互いに好きと言い合ったりしていた。

そんな空気を一変するクリスマスプレゼントが会社から届く。一年目、初配属先の通知書がわざわざクリスマスの夜に届いた。我が社は全国に勤務地がある。最初だし、一応希望は関西で出したから関西のどっかかなと甘い予測をしていた。しかし、結果は関東の埼玉であった。これも運命、埼玉に行くことで私の人生は一変するのだが、当時の私は確かに地元関西を離れること、皆と別れる、特に好きな彼女と別れることにかなり落ち込んでいた。


彼女もショックを受けていた。が、その後もそれまで通り2人で会ったりしていた。私は悩んだ。この好きな気持ちをどうすればいいのか。遠距離でも何とかなるだろうか?そもそも仕事の忙しさもわからないし、不安はある。この気持ちは蓋をするしかないのかもしれない。


が、やはり胸にしまい込むことはできなかった。結局、告白することにした。メールで告白することをにおわせて、大阪で会った。あまり覚えていないが、私はガチガチになりながら梅田のヨドバシカメラで告白をしたはずである。それだったら、クリスマスに展望台の上でしとけよとツッコミたい。


その時、彼女がどんなリアクションだったのか覚えていないが、なんとなく振られて気まずくなったような気がする。そして、彼女は餞別に好きな本をくれたのだが、そこに一緒に手紙も入っていた。そこには今はまだわからないけど、先輩とはずっと良い関係でいたい、大好きです的な事が書かれていた。嬉しいような切ないようなそんな気持ちで大阪から奈良まで帰った。


ここで、彼女と綺麗に終われてたら、なんと美しいストーリーだったろう。当時の私は地元を離れる寂しさと彼女と別れる気持ちに押しつぶされそうになりその後、埼玉に行った後、優しい彼女に醜態を晒す。人生最大の後悔と言えよう。今ではもう彼女がどう生きているのかさえ知りようがない。まぁ、それは次回書くかわからないが、今回の範囲外である。


大学の卒業式。たくさんの友人と別れを告げた。卒業式で別れを告げたのは授業等で会えば話をする
程度の仲の人達だったが、それだからこそもう一生会わないんだろうなと思って余計に寂しかった。別れは今も苦手である。

卒業式が終わった後は確かゼミ仲間と最後の晩酌をしたのだったかな。あまり覚えてないや。

大学の友人とはそれから一年に一回ぐらいのペースで会っていたのだが、近年は会っていない。別れと同じぐらい多くの出会いがあり、人間関係は更新されていくものだが、働き出してから出会った人と学生時代の友人ではやはり違う感情になる。結婚式で皆に会えるかな。



卒業数日後、ついに私は地元関西を離れ、全く馴染みの無い埼玉に向かって京都で新幹線に乗った。それから信じられないペースで私は転勤をしていき、引越なんて慣れたものになっていくのだが、この時は新社会人としての不安+地元を離れる不安の両方で押しつぶされそうになっていた。埼玉では新入社員にしてかなり色々な事を経験することになる。人生の第二幕の始まりである。

我が20代を振り返る② リーマンショックと就活

20代を振り返る日記、今回は21歳の頃にタイムスリップをしてみる。

大学三回生、私はそれまで通っていたキャンパスから京都市内のキャンパスに移動し、人生で初めての一人暮らしを始めていた。今思えば、三条や四条、ちょっと頑張れば京都駅まで自転車で行ける所に住んでいたなんて身分不相応もいいところだが、1、2回生の時よりも自由な気持ちで毎日が過ごせたし、ゼミも始まり友達も増えたことで恐らく三回生の前半は大学生活で一番楽しい時期だったと思う。


例の失恋もあったが、サークル活動は基本的に興戸のキャンパスにまで行かないとテニスができないため一気に熱が冷めていた時期でもあった。サークルの友人よりも学部の友人といる時間が多くなり、よくみんなで集まってお酒を飲みながらスマブラをしたり、将来について語り合ったりしたものだった。その時には彼女もできたり、確実に大人の階段を一歩一歩登っている感覚はあった。


そんな楽しい前半とは違い、後半は厳しい厳しい日々であった。就活が始まったからだ。

私は学部の友人が基本的には真面目な奴らで本当に良かったと思う。当時の私は大学に何となく入学したものの、その後一体どういう流れで卒業後社会に出て行くのか全く知らなかったし、どんな企業があって、どこが人気なのかも無知であった。秋に友人に連れられて参加した大学の就活セミナーで初めて就活というものを知り、自分の将来を本気で考え始めた。


私はあまりに社会を知らなかった為、とりあえず聞いたことのあるヨドバシカメラ紀伊国屋書店等自分が良く買い物に行くいわゆる小売業界が人気なのかと真面目に思っており、メーカーとか商社なんて聞いたことないなーと思っていたが、マイナビの人気ランキング等がうまいこと私を日本社会とはこういうものだということを教えてくれた。


就活は最初の方は楽しかった。大学に色んな会社の人事の人がセミナーを開いてくれ、どの企業の話も本当に面白かった。今思えば株主総会で株主に対して経営方針を説明するのに近い内容であったし、その企業の顔として仕事を任されている人事の人はみんな魅力的だった。


そして、冬になりいよいよこちらから会社に行ってセミナーを受けたり、選考を受けたりするようになった。この経験も実に今役に立っている。私は友人らと同じく、1日午前中から夜まで無駄なく大企業の説明会をスケジュールしており、その殆どが大阪や京都の各所で開かれていた。その為、大阪の地理にとても詳しくなり、今でも大阪の梅田等でも迷うことなく行きたい所にスムーズに行くことができるようになった。プライベートやデートで自信を持って大阪や京都を案内できるのはありがたいスキルである。


ところで、私の友人はリア充で真面目な奴が多かったから毎日1日中企業のセミナー等に脚を運んでいたし、私もそれが当たり前だと思っていた。しかし、先輩を見ても後輩を見てもそれはかなり真面目に就活をやってる部類に入るようだったし、見境がないとも言われた。なぜこのような温度差があったかというと我々の世代はある事件により就職氷河期の再来と言われていたからである。


リーマンショク。当時はリーマンショク、何それ?ぐらいの感覚だったが、今ならそれがどれだけの大事件かわかる。とにかく、我々は運が悪かった。リーマンショクのせいでほとんどの企業は採用数を減らしていたし、中小企業は採用をしないというところも多かった。企業側はこんな時こそ内定された人はその後会社で活躍できるだろうとか呑気なことを言っていたが、こちらは生きるか死ぬか、必死である。一個上の代は楽々内定取れてたのに、そこから一気にこんな不景気に陥るなんて不平等もいいとこである。


3月に入り、企業セミナーに行くだけの時期は終わり、ついに書類選考や適性検査が始まった。ESは何枚も書いた。最初は何の攻略法も知らず、素直に書いていたがそれでは普通に書類選考すら落とされた。減点方式、いわゆる脚切りにあわないためにマニュアル通りの書き方をマスター。志望度が高い企業の選考が始まる4月には、面接まではとりあえず行けるようにはなっていた。



そして、4月、面接ラッシュ。結局、私は恥ずかしながら4月に入っても志望業界すら無かった。とりあえず、名前を知ってる企業に内定貰えたらもうそこでいいやと就活に疲れ切っていた。それまでの人生の中で最も厳しい経験であったし、最も重要な1ヶ月であった。


面接を受けた多分20社ぐらいの中で半分程は集団面接で落とされた。個人面接に行けた企業の中で3次面接に行けたのもまた半分ぐらい。絶望感漂う中、大企業だけでなく地方で選考がある中小企業の選考にも平行してエントリーするようになった。


面接は性に合わなかった。何故なら、私はそもそも人見知りであるし、第一印象が良いと言われたことなんて生まれて一度も無かった。自分には何の価値もないし、そんな自分の何をアピールしろってんだよと路頭に迷っていた。結局この性格は未だに改善しきれてなく、結果は出すのにアピール力が全く無いというのは今の私ですらよく言われる。


そんな中で唯一面接でめちゃくちゃ怒られたのが実は私が今働いている会社である。一次面接の時、うちの会社でどうなりたい?会社をどうしたい?と聞かれてうまく答えれず、その後会社の数字等をテストされ全く知らなかったことが原因であった。こっちは本気で君と向き合っているのに、君はうちの会社のことを知らなすぎるとガチで怒られた。最後に次は期待してるからもっと勉強してきなさい、と。


その面接で私のやる気スイッチが入った。その後何度か面接があったのだが、あまり覚えていない。が、私は確かにその会社の選考に対しては他の企業以上に勉強して臨んでいた。そして、選考が進むに連れてここしかないという気持ちになっていった。


最終面接も少し怒られたのでよく覚えている。今は会社内では役員をやっている雲の上の人が相手だった。私は最終面接で緊張しまくり、大したことを言えなかった。普通なら落ちていただろう。しかし、その場で内定が貰えた。いわゆるポテンシャル採用というやつだった。


君今まで苦労してこなかっただろ?その才能と体を作ってくれた両親に本当に感謝しなきゃだめだよ。


最終面接でそう言われた。思わぬ言葉だった。そんな事はない、人並には苦労してきた・・はずだと振り返ってみたが、確かにそれまでの私の人生は努力以上の結果が出ることが多かった気がするし、本当の意味での苦労はこの就活が初めてだったかもしれない。必死にならずとも何となくここまでこれた私の人生だった。


なにやら、私は面接の前のSPIと言われる能力テストが選考を受けていた学生の中でトップクラスの成績だったみたいだった。我が社のテストは何故か異常に難しかったのだが、確かに運良く自分の得意な問題が続き集中力もあり手応えはあったのを覚えている。慶応の首席の子も受けていたが、私の方が良かったらしい。なのに、大学の成績はイマイチだし、面接でも全然力を発揮できていない、でも一緒に働いてみたいから、お願いします、と。


その時は本当に嬉しかった。もしかしたら、人生で一番ほっとした瞬間かもしれない。その後は選考が残っていた企業を受けて、もう一社内定を取ることができたが、私の気持ちはもう決まっていた。



よく人事の人は縁がなかったという言い方をするが、本当に縁というものは不思議である。今はこの会社以外で働く自分を想像することができない。縁というものはあるのだと思う。


就活によって様々な企業のことを知ることができ、本当に人生に二度とできないかけがえのない経験となった。あの頃の厳しさを思い出すと、今のぬるま湯につかりかけている自分の仕事に喝を入れたくなる。あんなに必死になって掴んだ内定、今の自分ももっと頑張らなきゃいけないのではないだろうか。


結果的に私は4月の終わりには就活を終えた。学部の友人も何やかんや自分と同じぐらいの時期に就活を終えた。中には、大企業ばかり6社の内定を貰えたイケメンもいたが、彼はその中から選らんだ1社をすでにやめ、外資企業に転職した。私も今や管理職となったし会社もどんどん成長している。皆頑張っている、皆に会いたい、この日記を書いて懐かしくそう思えた。

我が20代を振り返る① 失恋の興戸坂

20代も残りあと10ヶ月ぐらいとなった。年内には結婚もする。そんな節目を前に少しぐらい思い出に浸るのもいいではないか。ということで、流星ワゴンにでも乗った気持ちであの頃にタイムスリップしてみる。極めて個人的な内容になるため、誰が読んでもつまらないだろう。



2008年、かな。私が20歳だったのは。大学の2回生。私は秋田生まれの奈良育ちで、大学は京都の大学に進学していた。京都と言っても1、2回生の間は限りなく奈良寄りの興戸という駅の丘の上にそびえ立つキャンパスに通っていた。実家が西大寺と高の原の真ん中ぐらいにある私は勿論実家通い、大学受験の時は気にもしなかったが結果的に実家から近い大学に進学できたのは良かったし、中、高校時代の知り合いは居なかったが一緒に奈良方面に帰る友人も私にはそれなりにできていた。大学生活は当時確かに楽しかった。



2回生までの大学生活は至って普通であった。授業は基本的には全てでていたし、留年するような難易度の試験もほぼ無かった。アルバイトは中学の友人と地元のスーパーで週4日ぐらい、遅番で入っていた。バイトも色々な個性を持つ先輩達がいて楽しかった。大学に行くのも、バイトに行くのも楽しみなんて今思えば信じられないぐらいあのときは幸せだったはずである。


テニスサークルにも入っていた。私は高校の時に軟式テニスをしていたのだが、硬式テニスのサークルに入ることにした。なんでそこに決めたのかは正直あまり覚えていない。入学式かその次の日ぐらいに花見に誘われて、当時四回生だったお姉さんの優しさにコロッと行ってしまったのと、花見で会った同級生にたくさん同じ学部の人がいて彼らと一緒にいるのが当たり前になってしまったからだった。


タイムスリップできるならば、私はこのサークル選びだけはやり直す気もするし、でもやり直さない気もする。奈良から出たことが無かった田舎者の私にとって、そのサークルのアットホームさは居心地が良かった。しかししかし、その後わかったことだが、このサークルはテニスがまともにできる人はほとんどいないし、三回生の代以外はほぼ練習に来ない幽霊部員という存続の危機に瀕しているダメサークルでもあった。



ここまで書いてきて楽しそうな大学生活であるが当時私の頭を基本的に悩ませていたのは恋煩いであった。この一年はそういう面で見れば人生で一番悲惨な年だったかもしれない。一年の間で一回の失恋と一回の片思いしかできなかった。今思っても女心とは恐ろしいものである。


私はサークルの同回生の女の子にちょっかいを出していた。その子は隣のキャンパスの女子大の子で今思えばなんでその子のことが好きだったのかもわからないが、比較的大人しい感じの子で、サークル活動よりも学業やバイトを大事にする子だった。


私は比較的サークル内では誰とでも話せるタイプだったが、その子はあまり多くの人と打ち解けている様子ではなく人見知りであった。多分私は話やすいし異性を感じさせないから仲良くなりいつの間にか毎日のようにメールしたりする仲になっていた。
  

夏に合宿で宮崎に行った。学生の身分でなんて優雅な合宿と今は思うが、当時あろうことか私達は宮崎まで行ってその時間の半分ぐらいはテニスをしていた。私もそのサークルの中ではテニスは上手いし、熱意があるほうだったので他の観光なんて脇目も触れずテニスをしていた。今では考えられない。


そんで、あまり良く覚えていないが浜辺でビールかけをする時間があって誘われたのだが、私はその好きな子が服が濡れるのが嫌と言って断ったので一緒に自由時間を過ごすことになったのだった。結局ホテルの部屋で2人でトランプしたりお話をして過ごして、同回生からかなり冷やかされたのを覚えている。今の私ならその2人きりの時間で少なくとも手つないだり、キスしたりするが、あのときの自分にそんな発想はなく、ただ2人でいい感じになって満足していた。


当時の私はなんと意気地なしだったろう。ぶん殴ってやりたい。その後も合宿中終始いいムードだったにも関わらず私は告白もできなかった。高校時代に彼女は居たが、相手からのアプローチで付き合っていた為、自分から女性にどうアプローチしていいかわからなかったのである。


そのまま季節は秋になりますます私達2人は仲良くなった。周囲には付き合っていると思っていた人もいた。それでも、私は現状に満足していた。幸せだった。


今思えば、彼女の感情は秋ぐらいからたまに乱れていた。メールするのがめんどくさいとか、1人の時間が好きとか、キャリアウーマンになりたいとか、私に言って来たときもある。じゃ、メールしない方が良い??と聞くとそういうわけじゃないと。


季節は冬になり、別れは突然訪れた。彼女はサークルを辞めた。いきなり。理由は特に聞かされていないし、私からメールをしても返事は来なかった。そして、動転した私はそこで初めてメールで告白をしたのだった。


勿論、返事は来なかった。苦い経験だった。


ちなみに、この失恋には笑えない後日談もあった。実はその彼女は本当に短い間だったが、サークルの先輩と付き合っていたらしい。私がそのことを知ったのはなんと四回生の春だった。私はその先輩のことも大好きだから別に良いのだけど、振り返ってみれば自分の意気地なしさが酷い。笑えない。ちなみに、日記に書くかはわからないが、この手のやらかしを私はこれからも繰り返す。第一印象良くて、すぐ仲良くなって、ぐだぐだ友人やって、微妙な感じになってからフラレルというのは当時の私の鉄板パターンだった。これらの苦しみがあり今があると思えばそれまでだけど、学生時代、もうちょっと勇気があれば色々変わったことも多かったんだろうなって思う。


ちなみに、世間的にはこの年はエド・はるみがブレイクした年で、北京オリンピックが開かれていたようである。オリコン一位は嵐。この時からすでにオリコンはジャニーズに支配されていたのかと驚愕であるが、私が良く聞いていたのはMr.Childrenの『HANABI』。この歌がまた切ない感じなんだよな。


https://youtu.be/9gHciuhgsSo

人生は結局年功序列

思えば、私は20代の終盤を迎えている。この数年は転勤、転勤だったにも関わらずあっという間だった。大学を卒業して就職してもう6年以上経ったということは小学生時代を越えて、人生で家族を除いて最長の時間を同じコミュニティで過ごしていることになる。そう考えるとやはり就職してからの6年はあっという間であった。


20代は人生で一番楽しい時なのだと私は勝手に思っていたのだが、思い出せば厳しい体験ばかり思い出され決して楽しくはなかった。いや、楽しいのは楽しかったのだが、学生の時に想像してたそれとは違っていたのである。


人生は結局年功序列なのであることがよくわかった。  

私は今が20代で、もしかしたら人生で一番幸せである。それは何故なのか、色々要因はあるが結局のところ以前に比べて上司や先輩からとやかく言われる機会が激減したことが最も大きい事に気づいた。思えば、学生の頃から下級生の時代はあまり楽しくなかった。先輩にビクビクしながら遠慮しながら部活やサークルでも振る舞いがちだった。大学で色々な人に出会い、目上の人を持ち上げて、喜んでもらえる喜びを感じることができたが、それでも私は心の中では年功序列なんてくそくらえと思っていたし、後輩には一切そういう無駄な気遣いはいらないと言ってきた。


社会人なりたての頃なんて出会う人全員が上司で、飲み会やイベントの幹事は当然の如く全てやっていた。仕事でも小言を言われ、飲み会でも小言を言われ、当時はそれでも大人になった気でやりがいを感じていたりもしていたが、今思えば、あの時が一番きつかった。


偉くなるにつれて仕事量は多くなり、責任も大きくなったが、人に気を使い神経をすり減らすことはなくなった。今ではたまに訪問に来る月一回ぐらいしか顔を合わさない上司以外はほぼ自分の部下となっており、まぁストレスが少なくなった。自分が何も言わなければ、仕事終わりに飲みに行くこともないし、プライベートの時間も増えた。ほんとに仕事外での付き合いとか無意味だと思うし、自分が今の立場になってもその性格が変わらなかったことを誇りに思う。   


日本では至る所でこの年功序列の概念が発揮される為、仕事以外の人間関係ではまだまだ自分は下っ端で気を使う場面が多い。結局人間が本当に幸せを感じることができるのは周りの大半が自分より年下になったときなのかなと思う。それでも、20代より30代は人生は少しイージーモードに入っていくだろうと思う。


私が20代の頃一番頑張ったことは恐らく『我慢』だと思う。今思えば人生いつどうなってもおかしくなかった場面がいくつもあるが、自暴自棄にならず我慢してきたからこそ、今ようやく少し人生がイージーモードに入りつつある。我慢の代償だろうか、白髪も増えた。


ということで、今の若者に言いたいのは、20代というのは決して楽しいものでもなければ、華やかで自由なものではないということである。大半の人達にとっては30代に楽するための積み重ね、我慢の時期。まぁ、10代の時よりは金銭的にも余裕ができて、好きな時に好きな場所にも行けたりするのだけど。


逆に言えば、ある程度の地位になってしまえば、精神的にはイージーモードに入るし、周りに影響を与える人間になることができる。今が苦しくとも、何とかそう信じて頑張ってほしいものである。


20代ももう終わりが近づいているので、これから1年ごとにどんな事があったか思い出して、日記に書いてみようと思う。しかし、歳とったなぁ。元々人生30年と思っていたから、もう正直、いつ死んでもおかしくない。よくここまで頑張ったと、自分だけは自分を褒めてやりたい。

世の中の90%の資格は無意味

GWももう終盤を迎える中、今日1日私はとある資格試験に向けて最後の悪あがき的な猛勉強を行った。過去問とかをやりながら本当に呆れた。こんな資格取って何の意味があるんだよと。


私が今回受けなくてはならないのは環境衛生士という資格である。50人以上の労働者がいる自業場を管理する者は問答無用でこの資格を取らなければならなく、私は現状そのような立場にいるため、渋々受験することになった。法律には逆らえない。


しかし、勉強すればするほどもはや時間の無駄と感じるようになった。何故なら試験範囲にあるような内容は日常仕事をする上で全くと言っていい程関係が無い内容で、関係がある内容に関しては一般常識で大学生の頃から知ってるような内容ばかりだったからである。


仕事に関係のない内容としては、例えばエアコン使う場合の部屋の気積とか、照度は何ルクス以上じゃないとダメとか、糖類は口からアミラーゼという酵素によってブドウ糖になるとか、とにかくこんなこと覚えて何の意味があるの笑?という内容が非常に多い。普段仕事してて職場で気積が0,5s/mじゃないといけないとか誰が意識してるんだよ、二酸化炭素濃度が1000ppm以下になるように換気しようとかどうやって判断するんだよ、こんな知識無駄、無駄、無駄である。


数少ない仕事に関わるような内容も、一週間で40時間以上は時間外労働とか、有休がどうとか、休憩時間がどうとか一般常識だからわざわざ試験にする必要がない。


こういった試験の特に無意味なところは法律の総則とかである。衛生管理とは~~~~~~~~~~~~~~~~と長々と文章が続くわけだが、要は職場環境を良くするってことでしょ、なげーし、意味よくわかんねーよ、となるわけである。法律を作る人はもっと端的に表現するスキルを身につけるべきである。

まぁ、そんなこと言いつつも法律には逆らえないから合格するしかないのだけれど、今思えば学生の時よくあんな人生に無意味な勉強を飽きずにやっていたなとふと思った。当時はなんやかやそんなに苦になっていなかったし。今も流れにさえ乗ればこんなに下らない内容の資格勉強でも没頭できるし、私は勉強自体は確かに嫌いじゃない。この性格は本当に人生を助けてくれているはずである。


とはいえ、日本のほとんどの資格ってこんな感じで無意味なものばっかりなんだろうと思う。私は大学の時に簿記の資格を取ったがあれも何ら役に立ってないし、結局資格として勉強するより実際仕事でやってみて覚える方がよっぽど理解できるし、効率が良いのである。英検取るんだったら英語を使う仕事をすればいいし、簿記とるぐらいだったら実際に会社で就職して経理の仕事を教えてもらえばいいのである。


資格試験が存在するだけでその問題作ったり、採点したり、多額の受験料が掛かったり、試験対策産業が生まれたりという無駄が生まれる。世の中の多分90%ぐらいの資格は必要がない。

専門的な仕事にも別に資格は必要がない。資格試験で問われるような内容を理解していない人はその分野で戦っても食っていけず淘汰されるだけだから、資格がある、なしで分ける必要がない。資格を取ればとりあえずその分野で働ける・・という状態だと結局専門分野はがり勉の変わり者で多く占められてしまい競争性がなくなってしまう。人間性で採用をし、その後専門知識はOJTで叩き込むってのでもいいんじゃないかと思う。

さすがに、医者とかパイロットとか人の命に直結する仕事は私も資格を持っていてほしいと思ってしまうけれど。


AIが人間の仕事を奪っていく時代に入ると、資格や知識だけで生きてきた人はそれこそ食っていけなくなるだろう。ネット先進国ではすでに数年も前から全ての会計がオンライン決済になり会計士すら存在しなくなっている。そこには脱税も粉飾決算もない。


http://www.news-postseven.com/archives/20141029_283759.html?PAGE=1#container


日本もいずれはそうなる。銀行も税務署もいらない世界。専門知識なんて何の意味も持たない。そうなったとき、困らないように今のうちから不必要な資格はどんどん廃止してほしいものである。


とりわけ、今回私が受験する衛生管理士は不必要だと感じる。必要な時はネットで法律調べればいいのだから、調べてすぐわかることを丸暗記する意味って全くないよね。


まぁ、それでも私は真面目なので落ちないようにちゃんと追い込みを掛けるんですが・・。

この状況でパチンコできる奴は国賊

北朝鮮問題が世間を賑わせている中、私は個人が自律することが大事で政治とかはさして重要ではないと先日日記を書いた。しかし、この北朝鮮情勢に関して唯一許せない奴らがいる。それは未だにパチンコなぞやってる人達である。


パチンカス=クズ、は私の中で覆しようのない圧倒的真理なのでパチンコを批判する際は他のどんなことを批判するよりも迷いなく、恐れずにすることができる。


さてさて、こんなに世間が北朝鮮のミサイルにびびっている中で、北朝鮮のミサイル開発の資金となっている(可能性が高い)パチンコをやってる奴らはどういう神経しているのか本当に人間性を疑う。客も店員もである。北朝鮮にパチンコが関わっていることは恐らく大体のパチンコやってる人は知ってるはずだし、自分が楽しければそれでいいのか?頭がおかしいとしか思えない。しかも、勝ってるならまだしも、新基準の今のパチンコ、パチスロで勝てるわけがない。プロなんてもう絶滅危惧種北朝鮮にボランティアでお金をあげているだけである。


北朝鮮とパチンコの関係に関しては以下のブログが参考になりますね。


http://sp.ch.nicovideo.jp/smoky/blomaga/ar1245567


そもそもパチンコは北朝鮮から来たもので、過去に送金があったことは紛れもない事実、それが今は行われていないとなぜ思える?北朝鮮がいつまでもミサイル開発を続けられる資金がいったいどこから来ているのか?普通の人は疑問に思うはず。もし、送金されているかどうかわからなくとも、その可能性があると思うだけでとてもじゃないがそんなギャンブルに手を出したくない。皆こんなに北朝鮮情勢を心配している状況で。


そして、テレビのワイドショーやネットの論争でも驚くほどこのパチンコ問題は誰も話題にしない。ほんとにおかしいとしか言いようがない。アメリカの意向に従うしかない日本が唯一できることはパチンコを一斉禁止にし北朝鮮のミサイル開発資金を少しでも減らすことじゃないかなと思う。日本にはそれ以外にできることはない。


私はパチンコ撲滅を目指しているという一点のみで在特会桜井誠氏を応援している。こういう人はほんとにもっと出てきて頂きたい。


https://youtu.be/NsYWfQtWJcM


私が今まで出会った人間の中で、パチンコをしているが他の点では尊敬できるという人は1人たりともいなかった。例えタバコを吸っていても、酒癖が少々悪くても、女癖が悪くても、仕事ができなくとも、人間的には何かしら尊敬できるという人は少なくない。しかし、そこにパチンコを日常的にやっているというポイントが入ると、全く尊敬できる人がいなくなるから不思議である。パチンコをやるということは私が思うに人生を捨てるのと同意義である。


北朝鮮が騒いでいる今こそ、世間はこの朝鮮パチンコという日本最大の汚点を消し去るために、せっかくのGWにパチンコなぞやっている負け組に徹底的に冷たい視線を向けてほしいものである。韓国企業の電通を叩いた時のように、マスコミも力を発揮してほしいものである。まぁ、それができないから未だに全国各地にパチンコ屋がはびこっているわけだが。


政治もマスコミも警察権力も期待できないのであれば、もうパチンカスが行くのをやめるしかない。もし、この日記をたまたま見たパチンカーがいるならばすぐにでもパチンコをやめて頂きたい。強くお願いしたい。

題名にもあるように、この状況でパチンコやってる人間は国賊北朝鮮工作員と同じである。まずはパチンコ屋に行く前にそう自分に言い聞かせてほしい。自分のせいで万が一にでも北朝鮮から日本に核ミサイルが落ちてきて多くの人の命を奪うかもしれないと。


そして、次に休みの日にパチンコに行くしかやることがない自分の人生を蔑んでほしい。皆は大型連休で旅行なりを楽しんでいるのにパチンコ屋にいる自分を客観的に想像してほしい。なにもやることが無いにしても、本当にパチンコに行くことがベストなのか?そう一度自分に問うてほしい。


最後に、自分がこれから打つ機種で自分が勝てる確率を冷静に考えてほしい。例えば、最近でた人気機種、北斗7のスペックを思い浮かべてほしい。 


大当たり確率 1/319
確変率、継続率 65% 35%は時短7
右打ち時 65%は16R 35%は出玉なし時短100

例え1/319を確率以内で当てたとしても、最初の出玉がまずハナクソ、しかも35%引いたら時短7(笑)で即終了。運良く確変に突入したとしても、またまた35%を引いてしまうと出玉なしで時短に突入。継続率65%なのでいいとこ3連、もし3連した場合の出玉は多く見て5500発、等価で二万円ちょい。


釘もハナクソみたいな店ばっかりだと想像するが、まぁ1000円で20は回るとして2万で400回転。


どう考えても、勝てない。たまたま勝つことがあったとしてもこんなクソスペック、打ち続けていたら大敗するのは当たり前。冷静に考えてこんな確率に何万も掛けるのはおかしいとしか言いようがない。

もし、隣で10連も20連もしてる台があったとしたらそれは多分遠隔+サクラだろう。遠隔でも自分も当たる可能性があると考えるのはあまりにも無能、勝たせなくても、こんなクソスペックの台をノコノコうちにくる奴なんて餌を撒く必要もない。死ぬまで打ちにくれば?というのが店側の本音だろう。


パチンコ業界も完全に落ち目で店側もなりふり構わず絞り取りに来てる状態、未だにパチンコ屋に行ってる奴は無能、としか思えない。


上記を考慮してそれでも俺はパチンコ屋に行くというやつは勝手に行って破産すればいい。誰も困らない。


しかし、北朝鮮工作員と同じなのだから、保険も手当ても権利も日本で主張するなと言いたいし、戦争になれば責任を持って最前線で戦って頂くのは当然である。今の状況でパチンコをやる人には、それぐらいのリスクを課してもらわないと北朝鮮の脅威に怯えている人達が可哀想である。

なぜニコ生主、ユーチューバーを好きになれないのか?

資格試験があと10日後に迫っているのに、どうしても読みたい本があり、それがついに手に入った。そして、明日も仕事なのにこんな時間まで読みふけっている。


東浩紀さんの『ゲンロン0』。先日大阪に行った時に色々な書店を探したが全く置いてなく、住まいの最寄の本屋に今日ふらっと行ったら普通に置いてあった。まだ、七割ぐらいしか読めてないが非常に面白い、さすがの一言である。読み終えたらぜひ感想を記したいと思うし、皆買ってほしいなーと心から思える名著の予感がする。


で、今回の日記を書くきっかけとなったのは東浩紀YouTubeで動画検索してたらニコニコ超会議に出てたのがあってそれを見てたら、いわゆる雑談配信者と言われる方々に非常に嫌悪感を持ったからである。


https://youtu.be/De0BwBOcZCY


東浩紀夏野剛ひろゆきホリエモンが好きでよくYouTubeで動画を見ているのだが、けっこう誰これ?と思う生主の方が出てくることが多い。そういう人がでしゃばって来るのが嫌で大体共演してる動画は見るのをやめてしまうのだけど、今回はとにかく最新の東浩紀さんを見たいという一新でほぼ初めてニコニコ動画の世界では有名なのであろう生主の方々の話を聞いてみた。


彼らを応援してる人には申し訳ないが、正直、合わなかった。まだ、ヒカキンとかのユーチューバーの方が好感が持てる。ユーチューバーの人はもっと謙虚であるから。


4人の中では野田草履さんだけは謙虚さを感じることができたが、他の3人、特に石川典行、NERの2人は本当に嫌悪感を抱いたし、何も面白さを感じることができなかった。


今回彼らの何にそんなに嫌悪感を抱いたかというと、身の程を全く知らなかったからである。

経緯として、今年のニコニコ超会議はなんと北野武がゲストで出ており、本当は彼ら生主は北野武と一緒のステージに立ち、テレビ対ネットのような形で論壇が行われるはずであった。それをオフィス北野が急遽NGを出し、生主の出演はなくなり、いつものメンバー(夏野剛ひろゆき津田大介)といつも話すようなステージにしか立つことができなかった。確かにこれは同情するべき出来事である。


北野武はもっと段階を踏んで上がって来いという旨のことを話していたみたいだが、ニコニコ動画側がそれを許したこと、テレビからネットはまだまだ舐められていることに生主は怒りを持ったのだろう。特に石川典行、NERは俺たちは負けてないと怒りを露わにしていた。


しかし、この二時間にも及ぶやりとりを見て、普段ニコニコ動画を見ない私は、こいつら全然面白くないのによくこんな強気な事言えるなと思った。自分の身の程をほんとに知らないなと。ニコニコ動画ではこんな奴らが人気なの?どんな層が見てるの?とニコニコ動画の行く末すらも心配になった。


所詮は井の中の蛙、である。


相手は世界の北野、日本人なら誰もが知っているレジェンド。確かに我々の世代から見れば滑ってる時も多々ある、でもこれまで日本の芸能界、文化界を引っ張ってきたことは誰だって知ってる。それに比べれば、石川典行、NER、って誰?ひろゆきですら知らない人も世間的に見れば多数だと思う。


ニコニコ動画はテレビでできないことをやることに価値があるのは当然。私も学生のときはよく見ていたし、テレビよりも面白い動画はたくさんある。だからといって、明らかに自分より格上、目上の人に対して敬意を示せないのは面白いどうこうというより人間としてカッコ悪いと思う。確かに生主の方々から見れば、北野武にコケにされた形になったのかもしれないが、世間一般から見れば、あなた達にその土俵は早すぎるし、テレビに出てる芸能人がネットに幅をきかせることを毛嫌いしすぎ。器小さすぎ。


何よりも許せなかったのが、普段お世話になりまくってる夏野剛にまで噛みついたこと。ニコニコ動画という舞台がなければ何もできないのに、生きていけないのに、どういう感覚でいけばそれを提供してくれている夏野剛を批判できるのか。別に言いなりになる必要はないが、夏野剛の事情も普通察することができるし、察せなくても少しでも謙虚な気持ちがあればあんな態度は取れない。自分だったら、オフィス北野にNGを出されたとき、それを突き返せるのか??無理だろう。


さてさて、前置きは長くなったが、私は基本的にユーチューバーもニコ生主も嫌いである。今回改めて考えてみてその理由が何となくわかった気がする。


容姿が受け付けない。これが第一である。


東浩紀さんもひろゆきもそうなんだけど、なんでネットで生活してる人ってもっと容姿に気を配らないのだろう。いくら良いこと言ってても、面白くても、外見で生理的に無理っていう人いっぱいいると思う。ホリエモンはその辺昔の失敗を生かして最近頑張ってるなって思う。


テレビがいかに下らない内容の番組ばっかりやってても、やっぱ美男美女を見てるだけで何となく幸せな気持ちになれる。これは本当に大事な要素だと思う。NERとかはじめ社長がネットではイケメン扱いされてるのか知らないけど、正直別にそんなイケメンじゃないっしょ。



あとやっぱ最低限の常識が無い人じゃないと、大人からするときつい。石川典行とかNERとかを見てる人の年齢層がわからないのだけど、普通に社会で生きてる人から見たらガキにしか見えない。彼らの年齢は知らないし、私もまだ20代なのでもしかしたら彼らのが年上なのかもしれない。でも、今回の夏野剛に対する態度を見たり、あたかもテレビよりネット(自分たち)の方が面白いんだっていう主張を見てると常識無さすぎる。自由の意味を履き違えてはいけないのだと個人的には思う。テレビでできない自由な事をやるのは大賛成だけども、最低限の常識がないと一生テレビには勝てない。見る人の大半は社会で色んな人間関係に揉まれて頑張っている人なのだから。夏野剛もその1人。


茂木健一郎が日本のお笑いはオワコンみたいな事を言って炎上したこともあったが、どう考えても日本ではネットよりもテレビの方が強いし人気なのは普通に生活していればわかる。それが私自身も良いことだとは思わないけれど、ネット世界の著名人がそうやって謙虚さを忘れて醜態をさらしていく限りテレビの力はますます強くなっていってしまうだろう。


ニコニコ動画も昔はMAD動画とか好きだったけど、今回の生主のような彼らが第一線で活躍しているようであれば先は短いだろうなって思う。テレビともYouTubeとも違う独自の箱ができていながら、番組の質で衰退してしまうのは非常に残念である。コメントで突っ込みができるだけで素晴らしい強みなのだから、個人的には普通にテレビでやってるような番組で、もっと大衆受け狙っても別に良いような気もするのだが。ニコニコ動画=オタクのイメージは未だに強いし、所詮オタクはまだまだ世間ではマイノリティ、こんなにYouTubeと差が開くとは出てきた当初は思わなかったなぁ。


ニコニコ生主好きの人は気を悪くするような内容で申し訳ないが、なんか動画を見て気になったので、書いてしまった。