我が20代を振り返る④ 東日本大震災

20代を振り返るシリーズもついに社会人編に突入。私の社会人人生は転勤と共にあり、仕事のことは勿論そんなつっこんだ内容は書けないので、これからはただの地域紹介がメインになってしまいそうだが、それはそれでいいんじゃないかと思う。
 
 
私の社会人人生は埼玉から始まった。ずっと関西圏に住んでおり、旅行等でも関東に来ることはほぼ無かったので、本当に縁もゆかりもない地だと言えよう。社会人として週5日も当たり前のように働かなくてはならない不安に加えて、この周りに誰も知り合いがいない孤独は当初なかなか厳しいものがあった。


それでも、現実は待ってはくれない。東京で全体研修を受けた後、埼玉の配属先での勤務が始まった。


最初はやはり1日が凄く長く感じた。それまでのバイトでは基本的に4時間や5時間勤務であったため、8時間を毎日となるとやはり長い。でも慣れるのも早かった。初給料はとにかく嬉しかった。今までバイトで汗水流しても届かない額が一気に入り、生活の幅も広がった。当時恐らく人生で最も服に金を掛け、お洒落にしていた。


仕事では一通りの失敗をした。私は要領の良いタイプでは無かったが、先輩方は優しく指導してくれた。今の仕事のやり方の根幹は当時の先輩方から教わったこと。感謝してもしきれないが、多くの先輩はもうこの会社にはいなかったりする。


私が最初に配属されたのは新設されて二年目のかなり特殊な部署だった。多くの新入社員が各地域のいわゆる営業店に配属される中、私はどちらかと言うと本部機能に近い仕事をしていた。何故私が最初にそこに配属されたのかは未だに謎であるが、会社内でも当時確かに注目度が高い部署であったのは感じていた。社長や役員の方も良く訪れていたし。


激動の一年目を振り返る上で大きな出来事が2つある。一つ目は社内のプレゼン大会で国内大会を優勝し、NHKの某番組に取材を受けたことである。プレゼン大会と言っても、内容はその部署でどんな取り組みをし、どんな成果が上がったかというのを発表しあうような場であり、当時私の部署の系列の役員の方が始めたものであった。なので、正直我々の部署は有利であったのだが、役員の方の顔に泥を塗るような発表はするなよとかなり釘を刺されたのを覚えている。


その部署の中でも、さらに新しい仕事をしていた部門に私は当時いたのだが、そこには上司が2人いてあとは派遣社員の方が大勢といった状態であった。プレゼン大会には上司2人と私の3人で出場した。半年にも渡る取り組みの末、国内大会を突破できたのが決まった際は本当に泣きそうなくらい嬉しかった。もしかしたら、あの時以上の感動にはまだ巡り会えていないかもしれない。


おまけとしてNHKのテレビ番組にも特集され、それを録画したものは密かに家宝としてまだ保存している。そして、国内大会を突破した後、海外の関連会社とのプレゼン世界大会がその年は中国で開かれる予定だった。ここまで来たら世界大会を取るぞと意気込んでいた矢先、大事件が起きた。


東日本大震災である。私はその日たまたま休みで家でゆっくりしていた。確か昼過ぎぐらいだったかなと思うが、生まれて初めて死を覚悟するぐらいの爆発的な地鳴りが行った。

地震が起きた時、とりあえず私は外に出たのだが、同じアパートの住人の人も外に出て騒いでいた。私の居た埼玉は震度6であった。電柱も斜めになっておりこれはただごとではないと家に戻りテレビを見た。そして、驚いた。なんと震源地は東北だったのである。こんなに離れてる埼玉でこの揺れ、東北地方は本当にやばいに違いない。


私はまず職場に連絡したが繋がらず。電話やメールは一切繋がらない状態となっていた。

たまたま当時流行っていたミクシーのメッセージ機能が使えそうだったのでミクシーで関東在住の知り合いには連絡を取った。渋滞で動けない、駅では水道管が破裂し水浸しになっているようだった。

少し時間が経ち職場に電話が繋がった。そこの建物には100人以上の同僚がいるがけが人等は出なかったらしい、が、様々なシステムや商品が壊れてしまった為復旧のメドが経たない状態とのことだった。翌日は超法規的な早出で皆で復旧作業をする。


その日1日余震も多く、まさにこの世の終わりという空気が街中に漂っていた。ほとんどのお店は臨時休業し、スーパーの食料品等もスッカラカンになっていた。いつまた大きな地震が来るかわからない、そんな不安の中でもなんやかんや眠りについた。


翌日以降もニュースは地震一色だった。今回は東京も他人ごとではなかったこともあり、東日本全土がなんとか頑張って生きていこうという空気になっていた。そんなテレビ番組等を見て、私もやれることをやろうと励まされた。


職場は悲惨なことになっていた。何より一番重要なシステムがダメになってしまった為、商品を供給する作業を全て人の手で行わなくてはならない。どのお客様のどの商品がどこにあって、さらに商品自体が浸水等でダメになっている物もあり、ハルマゲドンと行った状態であった。仕事中も勿論余震は襲って来るし、特に派遣社員の方はナーバスになっていた。皆どこかで不安を抱えながらも一生懸命復旧作業を続けていった。


1ヶ月程で職場はほぼ復旧した。私の月の残業時間は130時間程になったが、勿論それに文句は無かった。とにかくよくここまで持ち直したなとこれまた泣きそうなくらい嬉しかった。残業代もきっちり出た為その月の給料は今の管理職となった給料よりも多かったと思う。4月にはノコノコと新入社員もやってきた。ほんとに復旧した直後に来たので、良いときに来たなコイツらと思ったのを覚えている。が、やはり初めて出来た後輩は嬉しかった。早稲田出身でずっと東京、私とは全く違う人生を過ごしてきた若者と接するのは刺激的であった。


とこんな感じで一年目は激動の日々であった。当時の上司が地震の時にこんなイレギャラーな事態は多分今後訪れないと言っていたのが印象的だが、これ以来こんな事件は確かに仕事で起こっていない。一年目からこの経験ができたため、その後のどんなことも大したことないと思えるようになった。東日本全土が復興に向けて皆で力を合わせて・・という助け合いの空気の中、できれば私は関東でもっと働きたいと思っていた。が、次の配属はまさかの地元、奈良であった。


関西に戻って、関西人にとってはあの東日本大震災は所詮他人事なんだなって強く感じた。なんというか凄く平和ボケしてるように見えた。そのくせ、震度3ぐらいの地震が来ると慌てふためく。余震が基本的に震度4以上だったこともあり、震度4ぐらいまでの地震はもはや私の中で地震ではないと思うようになっていた。何事も経験だなと。


埼玉での色々な出来事はあまりに印象的過ぎた為、埼玉との別れは本当に辛いものだった。多くの苦難と感動を共有してきた仲間は、今でも元気にしてるだろうか。転勤後、一度だけ埼玉の同僚達と飲みに行ったがそれっきり。今ではもう六年前、自分が埼玉に住んでたことすら遠い記憶だが、確かにあの時、私はそこにいた。